路地裏のカンオケ

表ブログでは書けないことを綴るだけ

「死にたい」=「構ってちゃん」説ってやつは

「死にたいって口にする奴は、ただの構ってちゃん」という方程式がある。

 

当方、淘汰郎という名のトカゲは、あえてそれを肯定する。

 

だってお前ェ、死にたくなってるわけですよ。

生きてるのがつらいんだか面倒くさいんだか、

自分でもよく分からねぇ状態に陥ってるわけですよ。

自分が感じてきたつらさや苦しさを誰かに打ち明けたいし、

打ち明けてもみるんだけど、理解されなかったり、

否定されちゃったりするわけですよ。

「つらいのはみんな同じなんだから」だとか、

「じゃあ死ねばいいじゃん」だとか、

「あなたより不幸な人間は世の中に大勢いる」だとか、

そういう言葉で、こちらの気持ちを全否定されたわけですよ。

その積み重ねの果てが死にたい願望なわけですよ。

話を聞いてもらえない、気持ちを理解してもらえない、

痛みに共感してもらえない、だから死にたいんだ、

つまり「死にたい」アピールは、最後のSOSなんですよ。

 

「死にたい」って何?

……失礼、些か興奮した。

ともかく、「死にたい」と口にするようになるまでには、

誰しも、それなりの経緯があるものだ。

赤ちゃんが生まれてきたその瞬間に、

「あ、アカン。僕もう死にたいねん」と考えることはない。

 人によって異なれど、「死にたい」と思うようになるまでには、経緯がある。

しかし厄介なことに、「死にたい」という気持ちの裏には、

本人に自覚がないだけで、「生きたい」気持ちが秘められていることを、知っていてほしい。

生きたいからこそ死にたくなるという矛盾した心理状態が生じているのだが、

正直に言うなら、誰であれ死ぬのは怖いし、死なずに済むなら、それがベストだ。

「今」を生きていることが限りなくつらいから、

「今」ではない時間、「今」ではない場所に行きたい願望が生まれ、

それが「死にたい」という言葉に変わってしまうのだ。

ああ、もどかしいが、これは経験者にしか分からないと思う。

 

気力が残っているうちに

「今」を生きることがつらい、「今」から逃げたい。

その気持ちを、うまく言葉に変換することができなかったり、

言葉にしたとしても、周囲からの理解を得られない状況が、長々と続く。

そうなってくると、「今」を「今」のまま受け止め、

それでも自分の足で立っていることがしんどくなってくる。

どれほど他人から否定されても、どれほど世間から拒絶されても、

それでも平気でいられるほど、人間は強くない。

心身ともにダメージが大きい出来事が重なっていけば、

疲れてしまうのは道理だと思う。

「死にたい」気持ちが理解できない人には、

……そうだな、100mクロールを108本、ぶっ続けで泳いだと仮定して、

「え?全然、疲れてません。何だったら、もう108本、泳ぎましょうか?」

と、言えますか?と問うてみるとしよう。

「言えます!!俺、普段から毎日100mを300本泳いでますから!」

という人は、まずいないだろう。

つまり、死にたくなるほどの精神の疲弊というのは、そういう状況なのだ。

100mクロールを毎日108本泳いでいたら、

とうとうプールから上がる気力さえなくなってしまった、という感じだろうか。

 

そんな状況に陥ったら、誰だって助けを求めたくなって当然だ。

何があっても周りに助けを求めることなく、絶対にたった1人で生きていけるほど、

人間というものは強くないだろう。

「死にたい」と口にするのは、なけなしのSOSなのだ。

「死にたい」と言っていられる余力が、辛うじて残っている状態だ。

「死にたい」から「死のう」に変わるのは容易だ。当方がそうだった(失敗したが)。

「死ぬ気になれば何でもできる」と言われてしまうことが多いが、

死にたい気持ちを抱えている人間は、「死ぬ気になったら」死ぬのみである。

誰でもいいから助けてほしい。

この痛みを和らげてほしい。

少しでもいいから共感してほしい。

せめて話を聞いて欲しい。

そういった気持ちの数々が、「死にたい」という言葉になってしまい、

SOSとして発せられているのだ。

 

死にたがりってやつは

「死にたがり」=「構ってちゃん」理論は間違いではない。

「死にたい」=「最後のSOS」なのだ。

SOSは他人に発信してこそ意味のあるものだろう。

地球最後の人類がSOSを発しても、受け取り手はないだろうから、意味はない。

けれど、日本最後の人類が、海外にお住いの人類にSOSを発すれば、意味がある。

それと同じことなのだ。

「正直に叱ってくれてありがとう」と涙を流す死にたがりは、

自分の気持ちに耳を傾けてくれてありがとう、ということを伝えたいのだ。

偽善を期待しているわけではない。

だから、叱ってくれるあなたを偽善者にしたいわけではない。

なけなしの「助けて」に反応があった、そのことで救われる人もいる。

そういうことなのだ。