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路地裏のカンオケ

表ブログでは書けないことを綴るだけ

慢性的に「死にたい」人の心理

LIMIT 30 メンヘラの主張

「死にたい」って言うと、

「死んじゃだめ」って言う。

こだまでしょうか?

いいえ、誰でも。

 

そうなのだ。

慢性的にでも突発的にでも、「死にたい」という言葉を口にすると、

「そんなこと言っちゃだめ」だとか、

「死んじゃだめ」といったような言葉が、

もはや脊髄反射レベルで返って来るのが、世の中というものらしい。

死にたい気持ちを抱えている者に対して、

そういった言葉がなぜ意味を為さないのか、ということを、

僭越ながら解説させていただこう。

慢性的に死にたい人の視点のみだが。

当方、慢性的に死にたい星人です。

 

なんで死にたいの?

そもそも、なぜ「死にたい」と思うのか。

単純である。「死にたい」と思う出来事に直面したからだ。

突発的に死にたくなってしまった人も、同じことだ。

例えば、クリスマス当日に恋人に振られて失意のどん底に陥れば死にたくなるだろう。

例えば、親友だと信じて長年付き合ってきた人物に裏切られれば死にたくなるだろう。

例えば、自分の大切な人が急にいなくなってしまったら死にたくなるだろう。

上記の三例は、突発的な死にたい人の場合だ。

当方のような慢性的に死にたい人間の場合は、

日々の様々な出来事が、長い年月をかけて鬱積し、その果てに至る心理である。

ぼっち飯な日々だとか、恋人いない歴=年齢だとか、虐待されてきた年月だとか、

傍目には大したことのないかもしれない、けれど当人には重くて仕方がない、

小さくて、取るに足らないような出来事が山積していくことで、

本人の心理状態が大きくマイナスに傾き、死にたい気持ちが生じるのである。

慢性的に死にたい人も、突発的に死にたい人も、

死にたい気持ちに変わりはないし、実行してしまう可能性が0ではない点は、

何も変わらないのだということを、まずは留意していただきたい。

 

「生きていればいいことあるよ!」

こんなことを言われてしまったら「は?」である。

慢性的に死にたい我々は、そもそも、これまで積み重ねてきた幾年かの人生の中で、

「生きててよかった」と思うような出来事が極端に少なく、

いっそ消えてしまいたいと願うような出来事が積もり積もって死にたくなっているのだ。

生きていればいいことがある、と思えなくなっているから慢性的に死にたいのに、

「生きていればいいことある」だなんて、無責任にも程がある。

自身の環境が、ある日突然、文句のつけようもないほどに劇的に改善されるのなら、

生きていていいのかもしれないが、そんなドラマティックな出来事は、

凡人には起こりえないのが世の常である。石油王にでも求婚されない限り。

したがって、「生きていればいいことあるよ」は、死にたい気持ちを抑えてくれない。

 

「生きたくても生きられない人もいるのに」

論外だ。

確かに、生きたくても生きられない人が世の中には大勢いる。

しかし、今、ここで、あなたの目の前で、「死にたい」と訴えているのは、「私」なのである。

急に第三者を引き合いに出されてしまったら、そもそもに話の視点が大きく異なる。

話をすることができない。

大体、「生きたくても生きられない人」が、イコール不幸だと考えるのは、差別ではないか?

その「生きたくても生きられない人」は、家族の優しさや周囲からの愛情を感じて、

「こんな日々だけど、私なりに幸せだ」と思っているかもしれないではないか。

「慢性的に死にたい」人に、「生きたくても生きられない」苦しみは分からない。

しかし同様に、「生きたくても生きられない」人には「慢性的に死にたい」苦しみは分からない。

我々は、誰かの人生を肩代わりすることも、体験することもできないのだ。

自分と誰かを比べて、どちらがより不幸かということを論じても、それは言葉の空費に過ぎない。

したがって、「生きたくても生きられない人がいるのに」は、寧ろ死にたい気持ちに拍車をかけてくれる。

 

「理由なんてないけど、死ぬのはだめ」

……はい?

いやいやいや。こちとら死にたい理由があるのに、それを妨害する側には理由がないんかい。

論外だ。

 

「死んでいい人間なんていない」

これもよく耳にするが、キレイゴトどころの騒ぎではない。

世の中の大抵の人間は「死んでいい人間なんていない」と言ってくれることだろう。

凄惨な事件で、罪のない人々の命が奪われた時なんかは、特によく聞く。

しかしその一方で、「世の中には、死んだほうがいい人間もいる」という考え方を持っている人が多いのも、事実だろう。

ニュースで伝えることさえも憚られるような、凄惨で残虐極まる事件が起こった時、

その犯人が3年で釈放されるようなことになったら、恐らく世間というものは、

「あんな奴、死刑にすればいい」「犯人こそ死ねば良かったのに」という意見を持つだろう。

したがって、「死んでいい人間なんていない」という言葉は建前に過ぎず、

死にたい気持ちを抑止する力を持たない。

 

どうしろってェんだい?

これだけ屁理屈を並べてしまうと、

「じゃあ、どないせーっちゅうねん」という声が聞こえてきそうだ。

あくまで当方の見解を述べると、

「言葉はいらない。共感してほしい。」

理解してくれなくて構わないのだ。死にたい気持ちに理解を示すのは困難だろう。

だが、「共感」してほしい。何も言わなくていいから、共感してほしい。

「死にたいのかい」「そうかい」と頷いてくれるだけで構わないのだ。

だが、間違えても「いっそ死んでみちゃあどうでェ」とは言わないでほしい。

「生きては苦界」と思えども、いっそ死ねと言われてしまったら、

「おk、ちょっと死んで来る」に気持ちが作用してしまいかねない。

理解しなくていい。共感してみてほしい。

慢性的に死にたい人間は、「今すぐ、可及的速やかに、何が何でも死にたい」わけではないのだ。

いつか、どこかで、どうにかして、死んでおきたいな、という思いなのだ。

故に、ただ、共感してくれる人が現れるだけでも、ふっと気持ちが上向きになる。

理解しなくていい。言葉もいらない。共感してください。

それが、慢性的に死にたい人の心理だと、慢性死にたがり星人の私は思うのだ。

 

最後に

こんな私が、かつて救われた言葉を、ここに書き残しておこう。

「そっか、死にたいんだね。そっかそっかー。

今、あなたに死なれたら、あたしの人生が変わっちゃうなあ」