路地裏のカンオケ

表ブログでは書けないことを綴るだけ

淘汰郎史_02 広汎性発達障害の自覚

当方の自分語り、第2弾。

今日もチョコがうめぇ。

 

これでも当方、一応の就職経験がある。

2度就職して、2度とも自己都合で退職している。

常識人の生き方から、順調に脱線している次第だ。

 

2度目の職場で過重労働の日々が続き、

精神的に危うくなったことが、発覚のキッカケだ。

突発性難聴、幻聴、幻覚、記憶の欠落、

食欲不振によって3ヵ月で5kg減、睡眠障害

急に手足が震えて字が書けなくなったり、

急な発汗が止まらなくなったり、動悸がしたり。

営業職でクライアントの下に出かけては、

「最近、大丈夫?」

「なんか、老けた?」

と言われ続けること6ヵ月。

にっちもさっちも行かなくなった当方は、

既に人生何度目とも知れぬ自殺を試みた。

 

正直に申し上げて、これまでの自殺の試みは、

躊躇い傷を刻み続けるのみで、

結局は自身が怖気づいてしまい、

「決行」に至る前に逃げてしまっていた。

 

今回の死の試みは、私なりに本気だった。

カーテンレールにベルトを通し、首を吊った。

どのように吊れば確実に成功するかということを、

あちこちの文献で調べてから吊るくらいには、真剣だった。

 

ところが、いざ首を吊ってぶら下がり、

思ったよりあっという間に気が遠くなって、

「さらば、現世」と思った矢先。

私の耳元、本当に耳の真横で、

子どもが駄々をこねる時のような、けたたましい叫び声が響いた。

うたた寝していると、体がビクッと撥ねて目が覚めることがあるように、

その叫び声に驚いたことで、目を覚ますようにして意識が覚醒。

反射的に足場に両足をつけてしまった。

 

その叫び声は幻聴でしかなく、

実際に私に誰かが声をかけたわけではない。

しかし、自死は失敗してしまったのだ。

 

自死の失敗という結果が絶望に拍車をかけた。

恥ずかしながら当方は実家暮らしなのだが、

両親は私の自殺に気が付きもしなかった。

ならばいっそ、事故死でもしようかと考えを切り替えた。

 

翌日、職場で同僚(と言っても、人生の大先輩だ)が、

「首、赤く鬱血してるけど、どうしたの?」と聞いてきた。

「首を吊ったら失敗しました」と馬鹿正直に答えた。

どうにでもなれ、と思っていたが故か、躊躇いはなかった。

その同僚の勧めで、翌週に病院を受診。総合診療科だった。

そこでまず「適応障害」という診断が下された。

自死の失敗については語らなかったので、

先に挙げたような症状から判断された結果である。

 

しかし、そこで医師に、

「つかぬことを聞きますが、死にたいと思ったことはありますか」と聞かれた。

ので、「失敗したので、事故死でもしようと思っている」と答えた。

自暴自棄になると、答え方など考えなくなるもののようだ。

そして、気が付けば心療内科への紹介状を手に入れていた。

同僚からは「診断書を貰ってきて、休みなさい」

「むしろ、こんなブラック企業は辞めた方がいい」

という、実に的確極まるアドバイスを頂戴したのも、良い思い出。

(いや、本当に、ありがとうございました)

 

そして心療内科を受診。

心理テストじみたアンケート?のようなものに答えた結果、

点数計算の末に出た結論が、「広汎性発達障害」だった。

診断が下された瞬間は「え?」としか言えなかった。

自分がそうだという自覚がないまま25年も生きていたのだから、

いきなりそんなことを言われて「ですよね」と言えるわけがない。

発達障害とは何か、ということに関して説明を受けるうちに、

「すげぇ。それ、私のことだ」と実感を強めていく。

昔から人間関係の構築が極端に不得手で、

さんざんな目に遭ってきたのも、そこに原因があるらしいのだ。

 

正直に言おう。

「先生は占い師か!どんだけ言い当てるんだ!」と思った。

 

無論、実際には先生は占い師ではない(笑)

ともかくも、これが私の広汎性発達障害の自覚の始まりである。